2009年04月22日
究極の技術★泡盛
写真の酒壷は、島さんの1斗壷で1986年製作。(中城時代)
数少ない昇り窯の壷と聞いています。
6月に発足する「琉球泡盛倶楽部」には、泡盛マイスターも多く参加します。
みんな熱心に泡盛を学び、「泡盛」や「クース」の為に一役買いたいと願う方でばかりです。
ところで、「泡盛の勉強」が行き着くところはどこでしょうか?
泡盛の「究極のテーマ」とは?・・・と考えてみました。
私もマイスターを取得したのですが、マイスター講座は酒全般の広い知識と泡盛です。
更に泡盛では、歴史や料理、、カクテルなどにも重点を置き、クースの奥深さを学ぶ事は少ない。
それは、泡盛にとって不幸だと思うのですがどうでしょう?
私はマイスター取得後も泡盛について積極的に学んでいますが、
実際に酒造所の方や、流通の方、クースを持った方など、知れば知るほど、自分の知識の無さを感じました。
今ではマイスター講座の同窓生や、泡盛業界関係者との交流が泡盛への知識を一層高めており、
泡盛業界の方を知ること、同じ志の人と交流することが、どれほど自分の力になるのかと感じている所です。
話は変わって、泡盛の神髄がクースにあることは、このブログでも何度も書いてきました。
クースの奥深さを知ることが、戦前の泡盛の繁栄に繋がる糸口だと考える私は、
泡盛に興味を持つ人々の交流が、再び訪れる泡盛繁栄の糸口だと思うのですがどうでしょう?
一方、「泡盛の勉強」の行き着くところはどこだろうか?と考えたとき、
私は「泡盛(クース)のお医者さん的な技術者でなければならない」と考えました。
前文で、「泡盛の文化」と「クースの文化」を分けたのには意味がありますが、
泡盛は蔵側の造り手の文化が大きく、クースは個人側の貯蔵熟成に文化があります。
言い換えれば、「生みの親」と「育ての親」。
造り手側の酒造所に製造のプロ(杜氏さん)が居るなら、民間の育てる側にも熟練した経験者が必要だと思うのです。
それが泡盛を深く理解する「お医者さんの様な方」の意味です。
究極の技術とは、健康にあたる「良い品質」の保持とすれば、やはり「仕次ぎ」の技術ではないでしょうか?
松山王子尚順男爵の遺稿集の中には、古酒は「沖縄の宝」とあります。
真剣に育てている人にとって、大事なクースに仕次ぎをするのは、怖いと感じる人も少なくない。
その事で、うりずんの土屋さんに聞いたところ、「何も怖くないよ!・・・後は育つのに」・・・と言われたのですが、
深くて重い言葉であるのは、言うまでもないんですが・・・やっぱり怖い。。。
(クース)持ってる人は他にもあるし、育つのは確かなんだから・・・
でも、同時に土屋さんは、仕次ぎの技術の大事さも強調していました。
「品質の維持管理」をどう考えるか?です。
今の味、香りや旨みの良い状態を出来るだけ保ちつつ、仕次ぐのは難しいと思うのですがどうでしょう。
究極の技術とは、そこだと思うのです。
仕次ぎに新酒を入れて待てば良いというのは、極端な意見で元の味に戻るかは「賭け」です。
やはり、1番甕には次に古い2番から・・・と言うのは、味の保持からくる技術でしか他ならない。
というからには、やはりその技術の育成には、クースの試飲を繰り返すトレーニングが必要です。
そして、それぞれの酒造所のクースを覚え、味の系統から仕次ぎの酒を助言する程の
経験があれば最良だと思うのですがどうでしょう?。
その前に、同一ブランドで無ければならない!等といった、クース造りの基本概念も超越する技術が必要に思えます。
考えると今夜も長くなりそうです。
数少ない昇り窯の壷と聞いています。
6月に発足する「琉球泡盛倶楽部」には、泡盛マイスターも多く参加します。
みんな熱心に泡盛を学び、「泡盛」や「クース」の為に一役買いたいと願う方でばかりです。
ところで、「泡盛の勉強」が行き着くところはどこでしょうか?
泡盛の「究極のテーマ」とは?・・・と考えてみました。
私もマイスターを取得したのですが、マイスター講座は酒全般の広い知識と泡盛です。
更に泡盛では、歴史や料理、、カクテルなどにも重点を置き、クースの奥深さを学ぶ事は少ない。
それは、泡盛にとって不幸だと思うのですがどうでしょう?
私はマイスター取得後も泡盛について積極的に学んでいますが、
実際に酒造所の方や、流通の方、クースを持った方など、知れば知るほど、自分の知識の無さを感じました。
今ではマイスター講座の同窓生や、泡盛業界関係者との交流が泡盛への知識を一層高めており、
泡盛業界の方を知ること、同じ志の人と交流することが、どれほど自分の力になるのかと感じている所です。
話は変わって、泡盛の神髄がクースにあることは、このブログでも何度も書いてきました。
クースの奥深さを知ることが、戦前の泡盛の繁栄に繋がる糸口だと考える私は、
泡盛に興味を持つ人々の交流が、再び訪れる泡盛繁栄の糸口だと思うのですがどうでしょう?
一方、「泡盛の勉強」の行き着くところはどこだろうか?と考えたとき、
私は「泡盛(クース)のお医者さん的な技術者でなければならない」と考えました。
前文で、「泡盛の文化」と「クースの文化」を分けたのには意味がありますが、
泡盛は蔵側の造り手の文化が大きく、クースは個人側の貯蔵熟成に文化があります。
言い換えれば、「生みの親」と「育ての親」。
造り手側の酒造所に製造のプロ(杜氏さん)が居るなら、民間の育てる側にも熟練した経験者が必要だと思うのです。
それが泡盛を深く理解する「お医者さんの様な方」の意味です。
究極の技術とは、健康にあたる「良い品質」の保持とすれば、やはり「仕次ぎ」の技術ではないでしょうか?
松山王子尚順男爵の遺稿集の中には、古酒は「沖縄の宝」とあります。
真剣に育てている人にとって、大事なクースに仕次ぎをするのは、怖いと感じる人も少なくない。
その事で、うりずんの土屋さんに聞いたところ、「何も怖くないよ!・・・後は育つのに」・・・と言われたのですが、
深くて重い言葉であるのは、言うまでもないんですが・・・やっぱり怖い。。。
(クース)持ってる人は他にもあるし、育つのは確かなんだから・・・
でも、同時に土屋さんは、仕次ぎの技術の大事さも強調していました。
「品質の維持管理」をどう考えるか?です。
今の味、香りや旨みの良い状態を出来るだけ保ちつつ、仕次ぐのは難しいと思うのですがどうでしょう。
究極の技術とは、そこだと思うのです。
仕次ぎに新酒を入れて待てば良いというのは、極端な意見で元の味に戻るかは「賭け」です。
やはり、1番甕には次に古い2番から・・・と言うのは、味の保持からくる技術でしか他ならない。
というからには、やはりその技術の育成には、クースの試飲を繰り返すトレーニングが必要です。
そして、それぞれの酒造所のクースを覚え、味の系統から仕次ぎの酒を助言する程の
経験があれば最良だと思うのですがどうでしょう?。
その前に、同一ブランドで無ければならない!等といった、クース造りの基本概念も超越する技術が必要に思えます。
考えると今夜も長くなりそうです。
Posted by 住職 at 22:00│Comments(0)
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